『ヴァーチャル・ガール』/エイミー・トムスン
人工知能の開発が禁止されている近未来社会、天才科学者アーノルドと彼が愛情を注いで作り上げた美少女ロボット・マギーとの逃避行。つかまればマギーは処分されこの世から消えることになる。冒険を通じて成長していくマギーはやがて…。
<もっとも象徴的なシーンがこれだ!>
彼女は新しいプログラム構造の組みたてを開始した。
のろのろと、彼女はデータの本流からほんのすこしずつメモリを回収しはじめた。ひとつのメモリを累算してゆくと、それに付随するメモリがメイン・メモリのうしろに自然と螺旋状に整列する。しだいにまるっきり別のもののような構造ができあがってゆく。最初はどうなることかと思ったが、新しいプログラムの形がはっきりしてくるにつれて、マギーはその論理の流れや連想の効率性に気づいた。アクセスタイムが半減するばかりでなく、無数の新しいメモリを蓄える余裕までふえたのだ!
自分の精神に新しくひらけた道をたどりながら、新しいディレクトリを生みだしてゆく。まず歩き方、話し方、いつなにをいうべきかといったことなど、人間に関するさまざまな情報が見つかった。そのうしろには、それを学習する過程の記憶が、整然としたフラクタルとなって展開してゆく。そこにはアーノルドの忍耐強い訓練のようすがすべて含まれていた。アーノルドに対するマギーの感情や記憶もそこにある。枝わかれしたまた別のメモリには、外界に関する情報の記憶がすべてつまっていた。たとえば地図、道路情報、生き残りのためのテクニック、そしてじっさいに外へ出たときの記憶は窓枠に羽を休める小鳩のようにその枝にとまっていた。ほかの記憶につながる隠喩、比較、連想といったものの枝もさらに先のほうへひろがっていた。なかにはコンピュータのネットワーキング、機能、そしてメンテナンスに関する枝もある。マギーはその内容を調べたり相互参照したりしながら、すべてをたどった。
核(コア)になる人格は、木でいえば幹にあたる、枝の集まるところだ。この幹はマギーのプロセッシング・パターンや思考したり決定をくだしたり記憶を呼びおこしたりするのに欠かせない番地(アドレス)を含んでいる。マギーの本能ともいうべき、もっとも奥深いプログラムはここにあるのだ。
(中略)
マギーは美しい水晶のようなみずからの新しい内部構造が気に入った。ズームバックして自分の精神構造から距離をおき、想像上の空間でそのまわりを周遊しながらながめた。非のうちどころがない。それでいて、これからも成長し、変化してゆく余地がたっぷりある。
(中略)
「機能が回復してるじゃないか! どうやったんだ?」
「あなたがいったとおりにプログラムを組み直したのよ。自分で自分を修理したんだわ」マギーはそう説明した。なんとなく自慢そうな声だなとアーノルドは思った。「新しい構造のコピーはコンピュータに入れておいたから、見てみて」
(中略)
見慣れたディレクトリは消えていた。そのかわりに、目の前には銀色に輝く巨大な木が悠然と回転している。アーノルドはそのまばゆい構造物の周囲をまわってみた。それは彼の手になるもとのプログラムよりはるかにすっきりしていた。彼が考案したごちゃごちゃと入り組んだ通路に比べると、その流れるような優美さは際だっている。その機能美と驚くべき独創性には心底感嘆する。それは見たこともないようなしろものだった。
その昔、創世記のコンピュータプログラムのコードは実に美しかったという。きれいに設計されたプログラムの美しさを、こんなふうに視覚的に表現したところに作者の才能のほとばしりを感じる。
マギーはどんどん進化していく。追っ手にやられて髪の毛や皮膚が少しくらいなくなっても、その都度自分で味方を見つけてはなんとか再生しつつ逃げ延びる。マギーにとってアーノルドが尊敬できる対象であることはいつまでも変わらないけど、次第にその距離は広がっていく。彼女にとって本当に必要なのは真の意味で自分を理解してくれる相手だから。
どこにでもある小さな街で、情報収集と自らの充電のために立ち寄った図書館。いつものようにコンピュータに接続した彼女は、ふと、自分にちょっと似たプログラムのかけらに気づく。少し手を貸してやればもしかして…。
アーノルドとマギーの愛の物語ではあるのだが、物語の中心はマギーの成長する姿にある。単純思考のロボットから徐々に人間らしい女性へと自我を育てていくあたりの描写が面白い。1993年の作品。インターネットはまだ黎明期。そんな時代によくここまで書いたものだ。
正直、表紙が今イチなので手にとっただけで読むのやめた人も多いだろうけど、中身は紛れもなく傑作だと思うよ。